お客様の心の声

職業病だとて職業を変える気はねえ

この子、痩せたなぁ、と思った。やつれたというよりは、シュッとしている。やっぱり運動とかしてるのかな。若いって良いよな。でもこの子ももう四十歳過ぎただろ? うちの娘はこの子より下だが、ムチムチしている。やっぱり整体師ってのは動く仕事なんだな。

時計屋の主人(70代・男性)

この子、痩せたなぁ、と思った。やつれたというよりは、シュッとしている。やっぱり運動とかしてるのかな。若いって良いよな。でもこの子ももう四十歳過ぎただろ? うちの娘はこの子より下だが、ムチムチしている。やっぱり整体師ってのは動く仕事なんだな。
俺は更衣室で下だけパジャマに着替えて、大きく出た腹をそっと撫でた。
うちは祖父の代からの時計屋だ。今じゃ息子も継いで創業百年を誇る。とは言っても家族経営だから、経営だけをやってるわけじゃない。もう七十になるのにルーペを付けて修理作業をやっていた。細かい作業が多い。目の疲れなんかパソコンの比じゃない。ジッと座って歯車を磨いている。
九州から持ち込まれた鳩時計は、何もわからない素人がクレ556をぶっかけて、油まみれになっていた。これを落とすなんて、どの店もやりたがらない。新しいのを買えと勧められるのがオチだ。俺だって断りたいよ。でも、わざわざ送ってこられちゃ断れない。どうしても直したいって気持ちを見せられちゃ、俺だって時計屋の意地がある。そう簡単に時計を捨てないでくれよ、って思っているからな。
それにしても、まったく。クレ556かよ。時計には時計の油があるってのに。
俺はそれをせっせと削り落としている。割りばしの先を細く削って、研磨剤をちょこっとつけて、こびり付いちまったクレ556を落とす。薬液に漬けて水で洗い流せば終わり、なんてことは俺の中ではありえない。金属の棒でゴリゴリ落とすなんて、もってのほかだ。こだわりとか、そういうんじゃないんだよ。そうでなきゃ動かないってだけだ。経験から来る感覚が俺の手に刻まれている。早く誰か受け継いでくれよ、と思っても、受け継げないだろうな、とも思う。自分が凄いと言っているんじゃない。感覚だけは本人が突き詰めていくものだ。教えられるもんじゃない。
仕事柄、整体院とは切っても切れない仲だった。若い時からあちこち通ってみたが、どの世界にもへたくそってのは、いるな。マニュアル通りって事なんだろうけど、一人ひとり相手が違うのに、同じことするってのはどういうことかね。時計だって同じだった。使う人が違えば環境も変わる。海の傍に住んでいるのか、近隣は畑が多いのか。歯車に付くチリひとつ変わってくる。それが違えば落とし方も磨き方も変わる。落としたぶつけただけが故障じゃない。汚れのせいで針は動かなくなる。部品交換だって既製品ではすまない。その時計にあった歯車を見極めて海外に発注をすることもある。一つ一つ直し方は違うってことだよ。それをここの整体院のねーちゃんはコツコツとやっていた。
出会いは十年以上前だ。まだ彼女も自分の店を持つ前で、俺の店の近所のマッサージ院で勤めていた。そこが経家者の都合で閉店になった。
このねーちゃんが一人で始めるって聞いて驚いたよ。
「回数券作れよ。買ってやるから」
オープン当時、俺は整体のねーちゃんに言ってやった。家賃を払いながら店をやるってのは大変なことだ。うちみたいに親の代からの店を継いだところは、場所も客もある。でも一からってのは、誰かが援助してやらなきゃなんないだろうって、思ったんだ。
「嫌ですよ。仕事する前からお金貰うなんて。他の店に行きたいと思っても縛るものになるじゃないですか。券があるから来てます、って言われたくないし」
整体のねーちゃんはケロっと言った。まったく気の強い女だよ。嫌いじゃないけど。
俺は勘が良い方だった。この子はこの先伸びるぞ、と思っていた。はたで見てたらわかんないだろうな。受けてみれば違いはわかる。俺がやってる事と同じなんだよ。
今日は目の調子が悪くて訪れた。半年ぶりだ。目の調子が悪いからと言って眼医者に行く感じではなかった。そりゃ、目が腫れた、痒い、なんてのは眼医者だろ。今日は焦点が合いづらいんだ。このねーちゃんから言わせると、焦点を合わす筋肉が使い過ぎで上手く伸縮しない、ということらしい。そりゃもちろん思い当たる。首はガチガチだし肩も背中もだ。調子が悪くてかなわない。彼女は大概の質問は答える。わからなければ次回までの宿題にして、と言う。コツコツ勉強してるんだよな。最初からなんでも知っている奴なんていない。俺だって同じだった。

「それとよぉ、この首、なんとかなんないかね。なんでいつもここばっかりこんなに張るんだか」
目の調子が悪いってのは、いつもの事だ。言わなくてもこのねーちゃんはさっさとそこから始める。俺はそれ以外のところも注文をつけた。作業姿勢に問題があることはわかっている。でもそれが俺の仕事姿勢だから、これは変えられない。そんなことは彼女もよく知っている。このねーちゃんは、俺に、姿勢が悪い、と言ったことはなかった。
俺だって海の傍に住んでいる奴に、歯車に塩が付くから引っ越してくれとは言わない。塩、付くよね、で、どうするか、だ。このねーちゃんがなんて答えるか、俺は楽しみにしていた。
「時田さん元々、歯、食いしばるからね。それ、起きてる時も寝てる時もやってるはずだよ。でも無意識だから。なぜ無意識で食いしばるのかを考えると、踵からの衝撃を、歯を食いしばることで止めているんじゃないかなと思う。そうしないと脳に振動が行っちゃうからね。歩くとき、踵打つ?」
「打つね。間違いない」
カツカツ言わせて歩くのが好きというわけではないが、癖だな。靴のかかとの減りは早い。乾燥した踵はひびが入っている。歳だしねぇ。
「じゃ、売りつけて悪いけど、踵に衝撃吸収のパット、当ててくれないかな」
いいよ、別に、と俺は応えた。
「これで首が楽になってきたら、踵打ちつけない歩き方に代えた方がいいね、って事だから。さらには首の力が抜けたら血圧も下がると思う。今、血圧下げる薬、飲んでるんだよね?」
よく覚えてるねぇ、と感心する。そんな話をしたのは前々回、一年も前の事だ。
「二百越えちゃった時があったからなぁ。それからずっと飲んでるよ。でも通常は百三十五くらいなんだぜ。それなのに、医者が百二十じゃないと、って言うからよぉ」
「別に百三十五でも安定してるなら良いと思うけどね。安定してない、ってのが問題なはず。でも二百はさすがに、キリン並みだから。キリンは首が長いから血圧二百越えないと脳に血液運べないからいいんだけど、時田さん、首の筋肉の力が抜けてないから、圧をあげないと脳まで送り込めないんだよ。それ、薬で下げてたら、脳に血液行かないと思うんだけど。ちなみに目の焦点を合わせる筋肉にも、血液が行かない。酸欠だ。ゼロって訳じゃないから倒れてないけど、足りないんだよね。首の力が抜けてきたら自然に血圧も下がる。首短いんだから」
まぁ、まずは、今入っている力を抜かせるのが私の仕事だな、と整体のねーちゃんはつぶやいて、首と肩をほぐしだした。
俺だって首の力が抜けるなら抜きたい。それが踵を打ち付けてる事と関係があるのか?
首から踵までは遠すぎて、いまいちピンとこない。
でも。
この子は俺と一緒だからな。感覚が手に刻まれている。それは試行錯誤を繰り返し、精進してきた奴にしかわからない。
俺はこのねーちゃんにゆだねる。俺が自分の客にそうして欲しいからだった。