末期がんの母親を自宅で看取った時の話

 相手を受け止めると受け止められた相手はどんな反応をするのか。その最たるものとして、私の母の話をします。
私の母は二0十二年の一月末に肺癌のため亡くなりました。二0十一年四月に癌だとわかった時にはステージⅣで、手術をして切除のできない肺腺癌でした。
東日本大震災の後一ヶ月が経って、実家で暮らす両親の様子を見に行った姉が、激やせした母を心配して聖路加国際病院に連れて行って発覚しました。聖路加国際病院には、糖尿病の予防のために二ヶ月に一度検診に行っていました。なぜ、その段階で発見できなかったのか。専門の科が違うからです。担当していた先生は心を痛め、母に頭を下げました。でも気が付かなくて当然です。専門が違うのですから。母も先生を責めることはありませんでした。
母には当時四十歳の長女・三十八歳の長男・三十七歳の私・七十二歳の夫が居ました。母は六十八歳です。子供たち三人は所帯を持ち、別々に暮らしています。
私の父親でもある母の夫は二十年近く、躁鬱病を患っていました。残念ながら相談相手になりません。父は自分が生きているだけで精いっぱいです。姉には小学生の男の子が三人いました。兄は前年の秋に結婚し、お嫁さんは妊娠中でした。
世間一般の最善策は、「抗がん剤治療をし、一日でも長く生きること」でしょうか。私の父や姉や兄にとっても、そういう認識だったと思います。では母にとっての最善策とは何か。
「このまま治療をせず、寿命を全うしたい」でした。
私は、検査の結果を聞きに行ったまま肺炎で入院中の母の元を訪れ、二人で作戦会議をしました。
説得ではなく、ヒアリングです。
「どう考えても、ここから先長生きする意味が見つからない。苦しい治療をして、治して、またパパの看病を続ける気力はもうないなぁ」と言いました。
私は、そうだね、と言いました。
父は五十代半ばで鬱病になり、会社を辞め、その後ずっと躁の症状が強く出ます。母は殴られ蹴られ罵倒されても、子供たちがみな所帯を持つまではと懸命に看病をしていました。警察に身柄を引き取りいく事もありました。父も心療内科に通院したり入院したりディケアに行ったりしていましたが、性格から来る言動なのか症状なのか判断の付かない時もあります。兄の結婚が決まったことで、母の気力は尽きてしまったように思います。
「父と別れたらどうか」という話をしたこともありましたが、母は首を横に振りました。あんなたち三人を作ってしまったのに、自分だけ逃げるわけにはいかない、というのが見えます。私は後方援助として時折旅行に連れだしたり、話を聞いたりしていました。本人が納得いくところまでやるしかないのです。そこにきて神の采配か、末期癌です。母は何かに許されたように感じたようでした。
「孫の成長に興味がないとかそういう事じゃなくてね、もう充分なのよ。だってキリがないじゃない。別にもう満足だし、楽しいこともあったし、あんたたちもみんな所帯持ったし、パパの老後分の貯えも残したし、家の中も直し終わったし、やることはやったと思っているわ。特別後悔も無いし、あっち行きたいこっち行きたいとか、そういう欲もないのよ。担いできた米俵を食べきった、ただそれだけの事だもの、ねぇ」と微笑んでいます。
私は、そっか、と言って微笑んだのを覚えています。
「正直、寂しくなるけど、しょうがない。解放されるんだから喜ばしい気もするしね。羨ましいくらいかも。自殺じゃないんだし、お父も殺さずに済んだし」
危なく夫婦無理心中になりそうになる時もありました。
私も母も、父が憎いわけではありません。ただ、もうどうしようもなかった。言ったことも言われたことも忘れてしまう相手と暮すことは、並大抵の精神力ではできません。
母は、全部見て来たあんたにそう言われると心強いわ、と笑っていました。
一緒に暮らして来ましたからね。私は母の環境を知り、状況を理解し、母の立場に立って考えることができました。自分だったら闘病をしますか? もう治らないと言われたのに? 何のために? 母は自分の寿命を受け入れていました。
「でも何も治療をしなかったってなると、残った人たちがやいやい言われちゃうから、ちょっとだけしてあげようかな」と言ってキョロっと天井を見上げています。その気遣いは大したものだねぇ、と思いましたがそれも本人の性格です。そのまま死んでもいいんじゃない?という私と、なんとしても治療をと言う残り三人、両方の顔を立てようと考えています。
本人のやりたいことがわかれば、あとはサポートするのみです。
抗癌剤は点滴を使って六時間かけて行うことになりました。私と当時失業中だった私の夫が送り迎えを担当します。月に一度と聞いていた抗癌剤投与の日の他に、経過観察の診療が二週間後にやってきます。一日でも長生きして欲しいと願う人たちは、自分の仕事や子育てに手いっぱいです。
私は自営業なので、臨時休業を決めることもできます。他の日にしわ寄せが来たとしてもそれはそれで、何とかなりました。
癌だとわかってから三ヶ月後、母は横浜の我が家にやって来ました。父の躁が強くなったり、とても自宅で療養していられなくなったのです。申し訳なさそうに「横浜に行ってもいい?」と電話をしてきた母を「いいよ、おいでよ」と受け止めました。
姉の所にも二週間ほどいたのですが、小学生の男の子三人を育てている姉に気兼ねし、何とか癌を治そうと健康食品を探しては食べろ食べろと言う姉に、母はほとほと困っていました。居候状態で「私の事は放って置いて」とは言えないものです。毎日お風呂に入る体力もない、食欲もないのに断れない。相手の必死さに、病人が委縮しちゃう。残念ながらこれは看護者の都合で看病をしているだけです。本人は治す気はないと言っているのに薬を飲ませる。介護の現場と似ていると思いませんか?
母が我が家に来て、私はこう言いました。
「ご飯も無理に食べなくていいよ。食べたきゃ食べればいいし、寝たい時は寝てればいいし。薬も飲みたくなきゃ飲まないでいいよ。薬を飲むからご飯食べなきゃ、とかいらないじゃん。もう時間がないからやりたくないことをやってる暇なんてないんだよ」
自分だったらそうして欲しいからです。
母は手を叩いて、そうだそうだ、と喜びました。
私には癌の知識はありません。でも治療をしないのであれば、そんな知識はいらないな、と思います。本人の希望としては「痛い苦しいだけ止めてくれれば、早く死んでも構わない」でした。

ある日、母の唯一の趣味だったパチンコに誘ってみました。父の看病とは、とても曖昧で目が離せず、檻に入れておくわけにもいかないものでした。様子を観察し、天候を見て、症状が強く出るかどうかを見極めないと、外でトラブルを起こします。そんな合間に友達とランチという気分にはなれません。母にとってパチンコは面白くないことを忘れるくらいには面白かったようです。コツコツと通って、自分ではどうしようもならない現状の鬱憤を晴らしてくれるものでした。
母は私たちにパチンコに誘われたことを、目を丸くして驚きました。そして「あんたたちは、バカね」と言って笑って涙を流しました。
「お金残して死んだってしょうがないじゃん。使い切ってから死になよ」と言うと、ワクワクと着替えを始めていました。
肺癌末期だって、ワクワクするんですよ。自宅と病院の往復だけしてる人生なんて、つまらないじゃないですか。
海釣り公園まで釣りに行った日もありました。水平線を見るのは、良かったみたいです。こんな穏やかな気持ちは久しぶりだ、と言っていました。
そりゃそうですよね。母はこの二十年、布団に入って寝ていませんでした。父が夜中に外に出ていく可能性があったからです。
さて、母が来てからの我が家の食事はというと、これまでと特に何も変わりません。病人食として小さく切ってしまう事もなかったですし、塩分を控えることもありませんでした。それは母が、通常の生活のまま最後まで生きたい、と思っていたからです。特別取り分けることもせず、大皿のまま三人で突っつきます。量は食べていなかったと思いますが、満遍なく母も手を伸ばせました。
「お皿になみなみと残すのを見るのは辛いものなのよ。あぁ、全然食べられない、って実感すると気が滅入るじゃない」と言っていました。
私と夫には、よく食べる母、という記憶が沢山残っています。
パチンコに行くぞ、釣りに行くぞ、と言うと自分で着替えもできる母でしたが、通院の日は朝から顔をどす黒くし、肩を落とし、ため息ばかりついていました。病院に行く日は十歳くらい老け込む印象です。嫌なことを無理して出来るのは健康なうちまでなのだな、と妙に感心したものです。そして心の状態はそのまま身体に出る。楽しい時、穏やかな時は若く見えます。生命力がある状態です。やりたくない時、嫌な時は、目から光は消え、虚ろになり、歩くこともままなりません。血行を良くしてどうこうという物ではないなぁと思いましたよ。
そしてついに、もう病院に行きたくない、と言い出しました。私は往診で来てくれるお医者さんを探し、治療はしたくないのだけど、死亡診断書は書いて欲しい、と言いました。これだけは医者にしかできません。
お医者さんは「肺癌は本人も辛いけど、傍で看ている家族はもっとつらいですよ」と呟きました。私は泣きながら「それでもやります」と言いました。笑って言いたかったんですけど、そうもいかなかったなぁ。私は母ともっと一緒に居たかったです。でも本人が苦しんでいる姿を見て来た二十年は、私にとっても辛いものでした。
聖路加に、もう治療はしません、と挨拶も終わり、月に一度の往診が始まったのは十月でした。母は「病院じゃなく、ここで死にます」と宣言し、私は「やってみろ!」と受けて立ちました。九月からの二ヶ月はとにかくよく遊び、よく笑い、よく食べて、よく寝ましたね。こんなに癌が自由なら、私も癌で死のうと思ったくらい。どこかが痛いとか眠れないとか、いっさいありませんでした。亡くなるなる二週間前までそうでした。
十一月に入ると母はとにかく寝てました。眠れるという事は不安がなにも無いという事です。「どこも痛くないし、いったいいつ死ぬのかしら」と母は首を傾げていたくらいです。
それでもどんどん痩せていっていたし、立ち上がるのに一時間かかったりしていました。立ち上がるのに一時間ですよ? でも遅いからと言って、勝手に手を出してはいけない。本人が自分でやろうとしているのだから。相手の自尊心とプライドを傷つけるような事をしてはいけない。まだ自分でやれることを奪ってはいけない。それが生きるということだから。頼まれたら手を出す。手伝ってと言われたら手伝う。遠慮して言えない、なんて間柄じゃダメ。
そんな母も年末にはついに起き上がることができなくなり、トイレに困りました。紙パンツに替えても、下の世話をさせるのはさすがに悪い、と思ったようです。もう入院してもいいよ、と言い出す始末でした。私には子供はいません。ましてや大人のおむつ替えなんてやったこともありません。
おしっこが吸収されていないおむつを引っ張り、部屋に巻き散らかしてしまったりしました。母も苦しかったと思います。自分の我儘に突き合わせて、娘の結婚生活はうんちとおしっこにまみれたものになってしまった、結婚三年目なのに子作りをする部屋まで奪ってしまった、と。
でもそれは、私が嫌々やっていれば「入院して看護師さんにやってもらえ!」と思ったかもしれません。うわべだけ良い人ぶって引き受けては無理が出る。精神的に不健康になると、爆発するものです。
私はけっこう楽しかったんですよね。こういう死に方もいいな、なんて思っていたし。死にざまを見せてもらえることなんて、そうそうないですから。
もちろん怖かったですよ。やったこともなかったし。周りでやったことある人いなかったし。でもそれよりも母が解放されることが嬉しかった。父に縛られていたわけではないけど、母は自分で自分を縛ってしまっていた。
死ぬことで解放されることは悲しい事ではなく、やり切った感があるなと思っていたんです。自殺でも事故でもなく、時間的猶予を貰える癌。
「ふざけんな! オムツが替えられないくらいで入院できるか! これを二人で乗り越えるんだよ! いまさらぶれるな!」と怒鳴り返してやったのでした。
今さら遠慮なんていらねーんだよ、あたしにあんたの死ぬとこ見せろ、ってことです。

おむつ替え特訓のお陰で母は容赦なくおしっこもうんちもできるようになりました。股間もタオルで拭き上げます。もう何も怖いものなんてありません。みんな、ここが怖いんじゃないかな。下の世話を誰かに頼む。情けないと感じるでしょうか。人に迷惑をかけていると思うでしょうか。
でも自然の摂理だと思いますよ。
「臭くてごめんなさいねぇ。でもありがと♪」って言えれば、どってことないですよ。私もいつか誰かに言ってみたい。

その後、痰吸引もしました。訪問で来た看護師さんが置いて行ってくれたのです。「私がやるんですか?」と仰け反る私に「私が来れない場合もあります」とチューブを握らされました。娘に痰吸引されるのって怖くないですか? 看護師さんにやってほしくないですか? でも自宅で死ぬとはそういうことです。訪問で来る看護師さんは、張り付いていてくれません。母も腹をくくり「いいわよ、あんたやってよ」と言います。こっちだって腹をくくります。
私、痰吸引上手になりましたよ。般若のような顔で亡くなる、という事を防げたこともありました。
その晩は母とビールを飲んで乾杯したものです。
もうすぐ死ねるぞ、ようやくここまで来たね、おめでとう、よくできました、お疲れ様でしたと二人で笑い合いました。死ぬ十日前でも、ビール飲んでいいんですよ。二十歳超えてますし。誰の許可が要りますか?
楽しそうでしょ。実際楽しかったです。それは『パーソン・センタード・ケア』ができていたからです。私の都合に合わせて母を介護するのではなく、母の立場に立って考える。だから母に無理強いすることはなかったし、その結果とても穏やかでした。どうしたって私の度量が問われます。いい訓練になったなぁと今では思っています。

睡眠薬も使わず、よく眠れていた母ですが、三日ほど夜間に「痛い」と騒いだことがありました。リビングに布団を敷き、夫と寝ていた私は母の声に気が付き、母が使っている寝室を覗きました。脚が痛いと言います。
肺癌なのに? 背中ではなく、脚?
寝たきりになって、運動不足も甚だしい状態です。日中はストレッチをしています。私もお店を介護休暇として自宅に居た頃でした。脚を摩って五分もすると、もう痛くない~、治った~、と言って笑っています。それではと布団に戻ると三十分もしないでまた痛い痛いと言います。そんな日が三日続きました。月一で往診にきた先生に話をすると、オプソと言う液体の薬を処方してくれました。それは麻酔効果のある痛み止めでした。
癌の痛みなのか? 日中は痛がることはないのに?
母が痛いと言うたびに、オプソを飲ませて脚を摩ります。もう痛くない~、治った~、と言ってはまた痛いと言います。痰も絡んできます。私は母の布団の横に座布団を並べて仮眠生活に入りました。私が横に居れば痛がることはない、でも痰は絡む。私は昼も夜もなくなり睡眠不足になっていきました。
母が死ぬのが先か、私が倒れるのが先か、というところまで来ていたと思います。それでもやってよかった。その極限が知れたから。
他の人に同じことをしろとは言いません。やっぱりこの状態になると一人でやるのは無理がある。まだ三十代だったから何とかなっただけです。四十代になった今だったら、家事代行サービスを頼んで母の横で昼寝をすると思います。
痛い=怖い、だったんじゃないかな。私と夫が寝静まった夜間、母は不安を覚えたんじゃないかな。
どうしよう、今死んだらどうしよう、誰か隣にいて欲しい。
だから私が横に居れば痛みは出ない、日中私が起きているときは痛くない。
私自身が母にとってプラシーボ効果を発揮していたのだと思う。
痛いとは、炎症や細胞を損傷した際に感じる危険信号です。感覚なので本人にしかわかりません。怖いと思う時、不安に感じる時、痛みとして身体に走ります。
スポーツ時に損傷が起きてもアドレナリンが活発で痛みに気が付かないことはよくあります。好きなことをやっている時には肩こりを感じない人もいます。何かに熱中している時や夢中になっている時ですね。反対に、トラウマから腰痛を起こしていることもあります。痛みを感じている個所にはなんの損傷もないのに。
身体のコリも同じような物だと感じることがあります。不安感が強い人は悲しいほど張りが強い。痛いとは、感覚であるということです。

さて、母は夫が焼いたステーキを最後の晩餐とした一週間後に亡くなりました。綺麗でしたよ。点滴も輸血も胃ろうもせず、身体に穴ひとつ空いていません。余分な水分も取らなかったので、むくみもなく綺麗に枯れた感じです。身体を使い切って、魂が出て行った、そんな感じでした。
死ぬ一週間前にステーキなんて食べれるんだなぁ。それは母が夫に感謝をしていて、恩返しのつもりで食べていったようでした。
「死んだらあなたの守護霊になります」と言われた夫は照れていましたが、私は「私じゃないのかよ!」と本気で突っ込みました。
人が死ぬことにタブーなんてないなぁと思います。死ぬまでは生きてる最中ですから。私は母を病人扱いせず、最後まで普通に接しました。
病人扱いとはどういうことを言うのでしょう。
「早く良くなって欲しい」とは完治の見込みのない人に言う言葉ではない。それでも言いたい人は自分のために良くなって欲しいのだと思う。これは相手の立場になっていない言葉です。
末期癌になった母は、よく寝てよく食べてよく遊びました。痛い苦しいもほとんどありませんでした。それはなぜか。受け止めてくれる相手が居たからです。娘だからという訳ではありません。私も母親だから、身内だからやった、という訳ではありません。母だって産まれた時から私の母親だったわけではない。誰かの娘だった時もあったし、姉になり妻になり母親になっただけ。役割なんて時間と共に変わって行きます。変わらないのは「その人」というところです。母はお母さんでも奥さんでもお姉さんでもなく「関谷和子」という一人の人間でした。私は彼女の環境を理解し、彼女の立場に立って、俯瞰して、サポートしてきただけです。それを一緒に楽しめるかどうか。悲劇も喜劇も、選べるんですよ。
その為にはお互いの信頼関係ができていないとダメです。偽善じゃダメ。私だって死ぬ気でやりました。こっちも相手を信頼してなきゃできない。
肺癌だった母は「肺が痛い」「息が苦しい」とは一度も言わなかったんですよ。
痛いという感覚は不安からも生まれていて、安心していると痛みはない事を母に見せてもらったのでした。
『くつろぐ』という状態を整体師が作れるかどうかは、とても大事で、整体師本人の精神的肉体的健康は必要不可欠だということです。